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東海バネ工業株式会社

水の流れと共存共栄の90年 | 株式会社丸島アクアシステム 様

第1話

水の流れと共存共栄の90年

日本は山と水の国。豊かな水は土地を潤わせ、その自然の恵みは海へと
注がれる。川は、二つとして同じ顔を持たない。
だから、水量を調節する水門もオーダーメイド。
人が叡智を結集し、一つひとつの水門をつくり上げる。その技術には、
歴史に裏打ちされた独創性、伝統、美学がある。水と共に生きた
「丸島アクアシステム・90年の物語」を、島岡秀和社長が語る。
それは、この国を支える背骨のようなストーリーなのである。
(敬称:文中での社名は丸島に省略させていただきます)

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三代目:島岡秀和社長

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奈良工場を見守る、創業者、島岡信治郎

奈良から大阪へ

三輪そうめんが有名な奈良の農村地帯。水車を浮かべ、その動力でそうめんの粉を挽く
製粉業を始めたのは1909年(明治42年)のことだった。丸島アクアの原点であり、
創業者である島岡信治郎が父親と興した事業。そうめんの掛巻作業を機械化した
「掛巻機」も発明し、粉屋から鍛冶屋へと商いを広げた。「独立して、一旗あげたい」。
父親から離れて奈良を飛び出した創業者は、省線電車(現JR)に乗り込み、経済の中心地である大阪へと向かった。

「辿り着いた駅は鶴橋。高まる思いのままに、住居付きの僅か23.5坪の町工場を購入し、念願の会社を立ち上げたのです。この麺類と掛巻機の卸を営む「合資会社丸島商店」の
誕生が、歴史物語のはじまりです」

そんなある日、偶然にも奈良県耕地課の主任技師である岡部清という人物と出くわし、
溜池栓の開発に着手することとなった。

人に喜んでもらうこと

「溜池栓とは、溜池の取水口を開閉するための栓のことで、農業用溜池水は、表面と
底部で水温が大きく異なり、稲作には上層の日向水が適しています。その水を田畑にひくために溜池栓が必要なのですが、当時は、布をまいた木の棒で栓を開閉していたようで、これが村人総出の重労働。その負担軽減に挑んでいたのが岡部主任技師でした。
すでに「ボールバルブ」という製品を開発していたのですが、水漏れや操作の不便さ
から、改良の必要性に迫られていたのです」

「島岡さん、やってみないか」

岡部氏に話しを持ちかけられた創業者は二つ返事で承諾。工業学校の夜学に通いながら
製作実務を学び、寝る間も惜しんで研究に取り組んだ。

ようやく試作品を仕上げた創業者は、村の人たちが見守るなか、祈るような気持ちで
試験を行った。鋳鉄製の蓋につながるチェーンを引っ張り上げると、どうだろう、
溜池の水は渦を巻いて取水口に吸い込まれていき、緩めて蓋が閉まると水の動きは
ピタリと止まった。

「やった!大成功」。

大歓声が静かな農村に響き渡る。多くの人の喜ぶ顔を見ていたら、それまでの苦労など
どこかに吹き飛んでしまった。
「世の中の役に立つこと、人に喜んでもらえること」。
この経験が、水とともに歴史を積み上げていく丸島商店の出発点となったのである。

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水門メーカーとしてのスタート

丸島商店の製品第一号「岡部式溜池栓」が完成すると、創業者はチラシと模型をつくり、80キロもの大荷物を担いで売り込みに東奔西走した。溜池栓が知られていない土地は
まだ多く、予想を上回る大反響。これに手応えを感じ、堰止め用木製門扉を金属製に
作り換え、オリジナル「スルースゲート」を開発した。

水門機器の注文増加で、製麺販売に手が回らなくなったころ、戦争時代に突入。
戦争遂行のため、モノとカネに統制を行う政府に、企業は自由な生産販売や価格設定
までも制限されてしまう。仕方なく創業以来続けてきた製麺販売から撤退したのだが、
これを「水門メーカーの専業になるチャンス」と捉えた創業者の転身は流石であった。1940年(昭和15年)、屋号を「丸島商店」から「丸島鐵工所」へ改称することで、
その決意を表明。こうして、農業土木分野の水門メーカーとして、道なき道を進んでいくのである。

初の大型受注

「戦時下のなか、水門設備は食料増産に直結するからと制限は受けなかったそうです。
さらに、軍需産業以外の設備投資は認可されないのですが、丸島は機械設備の拡充が
認められました。うまい具合に、良い方向に導かれ、工場用地の拡張、機械設備投資で
増産体制が整ったとき、初の大型案件を獲得したのです。9箇所の河川の運河出入り口に防潮用の閘門(船通し門)を設置するという大阪府から、うち5カ所を受注。先だって納品した灌漑用水路の小さな門扉製作の経験をいかして、工事を完成させたと聞いています」

この成功が評価され、太平洋戦争勃発の最中でも、水門事業は堅調だった。
しかし、工場での操業が不可能となり疎開、そして、終戦を迎えた。日々の生活は困難を極めたが、「なんとしても、再建にとりかかろう」と、かき氷用の氷削機製造で
繋ぎながら、資材や資金調達にかけずり回った。敗戦からしばらくすると、日本経済に
復興の兆しが見え、ようやく丸島にも注文が来るようになった。

経済復興の深刻な電力不足を解消するために、日本の電力需要は加速度的に増大した。
「黒部の太陽」として映画化された世紀の難工事、黒四ダムをはじめとする、水力発電の開発が相次ぐ。その需要とともに、発電所の発電用ゲートの製作、除塵作業の
機械化ニーズに対応した除塵機の開発を次々と展開。
「東の田原(田原製作所)に、西の丸島」と称されるほどに、快進撃が続いた。

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名は体を表す

ある人物からの助言で、社名に水門メーカーであることを謳おうと、
1952年(昭和27年)、丸島鐵工所から、丸島水門製作所に改めた。

「当時、水門と名のつく社名はおそらくうちだけだったでしょう。水門一筋という他にはない存在だからこそ、称することができたと思います。24年間で3度の社名変更に、
創業者の意志決定の強さが伝わってきます」

まだ、コーポレート・アイデンティティ=CIという考え方が叫ばれていない時代から、
自社の独自性を社名に転化することで、メッセージを発信し、存在価値を高めていった。このことを大切な戦略としたのであろう。こうした創業者の生き方は、後生にも
伝承され、丸島はさらに生まれ変わっていくのである。

第二話へ続く・・・

~水の流れと共存共栄の90年~

株式会社丸島アクアシステム

http://www.marsima.co.jp/

所在地 〒540-8577 大阪府大阪市中央区谷町5-3-17

 

取材ご協力

代表取締役社長 島岡 秀和様
取締役 常務執行役員 奈良工場長 前田 雄司様
生産部 調達グループ マネージャー 谷口 俊夫様
調達部 部長代理 小山 正嗣様

取材

東海バネ工業 ばね探訪編集部(文/EP 松井  写真/EP 小川)