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東海バネ工業株式会社

世界の最先端が認めた三鷹のテクノクラート | 三鷹光器株式会社 様

第1話

壮大な実験室から

東京都三鷹市に、国立天文台の三鷹キャンパスがある。
そこで、毎日ように遊んでいた兄弟は、
馬車で運ばれてきた一台の天体望遠鏡に夢中になった。
のちに、その兄弟は精密機器メーカーの会社をおこし、
NASAに採用されたカメラ、ライカに認められた脳外科手術用顕微鏡など、
世界をあっといわせる技術を生み出した。
50名という少数精鋭で世界に挑む、三鷹光器の中村勝重社長を紹介する。

「ドクターも職人、我々と気持ちが一致するんです」

世界のどこにも、ナンバーワンといわれるドクターは存在する。そうした神の手ばかりが集まる北海道のある場に、中村勝重社長は頻繁に顔を出す。なかでも、脳外科で有名な
上山博康先生は、三鷹光器の技術を信頼してくれる一人だが、こうした名だたるドクターのことばを聞き、時間をかけて実現したのが、脳外科手術用顕微鏡「オーバーヘッド型
バランシングスタンドMM80」。この製品を転機に、世界の医療界から必要とされる存在となった。

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中村勝重社長

「ドクターも職人なんですね。手術がはじまったら、何がおきるかわからない。
そのために、いかに度胸をもって、まわりが慌てても、自分は慌てず、難解な手術を
切り抜けていくかが勝負。
そうしたところに、我々のものづくりの気持ちが一致するんです」

三鷹光器を支える手術用顕微鏡は、中村社長の奇想天外の発想で、世界シェア 50%を
超える。医療機器といえば、圧倒的に強いのがドイツ。
何故、そのドイツを超えることができたのだろうか。
その歴史を紐解くと、天体望遠鏡鏡からはじまるのだった。

「おじちゃん、これ何?」
この一言から、すべてが始まった

遡ること、昭和10年〜20年代。生まれ育った三鷹市の自宅の近くに、国立天文台が
あった。そこは、創業者である兄と二人だけの遊び場で、本物の望遠鏡を幼少の頃から
間近に見てきた。300キロというレンズが、ボディの十数メートル先についていた。

「小さい体で巨大な望遠鏡を見ると、まるで、恐竜ですよ。『おじちゃん、これ何?』。この一言が、すべてのスタートでした」

おじちゃんとは、東京大学の天文学博士のこと。現在独立法人である国立天文台は、
以前、東京大学東京天文台だったことから、博士や東大生が室内で研究に没頭する毎日。当時の東大生は、少々くたびれた格好をしていたものの、いずれは、日本を背負っていく優秀な人たちだけに、中村少年は東大生がくると自然に頭を下げていたという。
実はこの天文台、1924年に麻布から三鷹へ移設されたのだが、地主との権利調整を買って出たのが、東京大学天文台の職員だった中村社長の父親なのである。

「その昔、このあたりは新選組局長の近藤勇が影響力をもっていて、気の荒い人たちも
多かったそうです。そうした三鷹の数十万坪という土地に住んでいる農家の人たちの
立ち退きをやるわけですから、当時の東大総長南原氏と大変な苦労をして、天文台を
つくったのです」

移設後も、大工仕事に秀でていた父親は、天文台の望遠鏡や精密機器の製作、設置に力を発揮した。そんな経緯から、天文台の敷地内が中村兄弟の遊び場になったのは当然の
こと。今でいえば、数百億円もするようなカールツァイス社製の望遠鏡を見ながら育ったというから、なんとも贅沢な環境である。普通であれば、天体少年になるところだが、
2人が興味をもったのは宇宙ではなく、「この望遠鏡はどうやってつくられているん
だろうか」というものづくりだった。

「おじちゃん、地球がまわってるって、どういうこと?」
「太陽のまわりを・・・」
「おじちゃん、行ったことあるの?行ったことないのに、なんでわかるの?」

この少年たちに地球の自転をどう、教えたらよいのか・・・何でも屈託無く質問してくる2人に、博士たちは、ずいぶんと頭を抱えたことだろう。こうして、自然という教科書と、博士や東大生と接する学びの場で、好奇心の火が点火され、多様な創造活動が
起こっていったのである。

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立体的な絵を描く少年の創造性

中村少年は、絵にも興味をもちはじめた。敷地内に掘られていた何でも放り込まれる
大きな穴に、星座が描かれた白い模造紙が、よく捨てられてあった。
それを拾っては、半分焼けた木製の棒切れをペンシル代わりに、絵を描いていた。
驚いたことに、6歳の少年の絵は、3次元で表現されていたというから、飛び抜けた
創造力を持ち合わせていた。

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子供は普通、自分の目線から2次元で絵をかく。しかし中村少年には3次元でものを見るという創造性が小さな頃から育まれていた。天文台という壮大な実験室で、世界を驚かす技術を持つ試作品を、この当時からつくっていたのかもしれない。

「当時、正月になると、ピーヒョロピーヒョロと、獅子舞が家にやってくるんです。人がかぶっているとはわかっていても、獅子の顔が怖くて、畑へ逃げても、すぐに捕まって
しまう。追いかけられないように木に登るんですが、それでもカタカタと下から脅かすんです。その体験をひきずったまま、小学校に入った私は、立体で絵をかいていたんです。上からの視点ですから、よっぽど、木の上から見た獅子舞の残像が消えなかったので
しょうね」

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話はそれるが、宮沢賢治の教師時代は、情操的にも豊かで生徒の心を希望と喜びで
いっぱいにする真の人間教育だった。「私の授業は頭で覚えるのではなく、身体全体に
染み込ませてください」といった賢治は、生徒をよく外に連れ出しては、自然のなかで
実習させたり、墓地で肝試しやスイカ泥棒ごっこを企画した。
後に、賢治先生の教え子をインタビューしまとめた本が出版されたのだが、教わって60年以上経ったにもかかわらず、当時の体験を活き活きと語ったことに、皆、度肝を
抜かれた。いかに幼少のころの体験授業が、子供たちの心に深く刻まれるのかということが、宮沢賢治の話から理解できる。

宇宙の謎解明に求められたもの

天文台での遊びが、まさに体験授業となった中村少年は、その後、工業高校に進んだ。
16歳のとき、父親が亡くなり、父と一緒に天文台の仕事についていた兄が、
「官公庁関係の仕事は、大学出でなければ給料が上がらない。いっそのこと、会社を
立ち上げよう」と一念発起し、三鷹光器は設立された。
モノづくりが好きだった中村社長と姉、次男も加わり、1966年に4人で歩み出したので
ある。

東京大学宇宙航空研究所や、天文台を顧客に、少量受注生産体制を築きながら、
天体望遠鏡、最新鋭の宇宙観測機器を次々と開発することになる。
その多くは、特殊なものばかりだった。

「大学の先生は提案するだけで、ものはつくれません。だから、私たちがつくるのです。代表的なものは、南極のオゾンホールを発見した観測機器や、質量が大きく、光も音も
すべて吸い込む宇宙のブラックホールを発見したX線望遠鏡も私が設計したものです。
月を回った「かぐや」に搭載された観測機器、NASAのスペースシャトルに搭載された特殊カメラも開発したんです。誰も褒めてくれませんがね(笑)」

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NASAスペースシャトルに搭載するHL観測カメラの製作は、大手2社との競合だった。「零下150℃でも真空チェンバの中で作動する」という条件の下、大手2社はチェンバの
外部電源で駆動させたが零下120℃で動かなくなった。
しかし三鷹光器は、なんと数ボルトの電池で零下160℃まで正常に作動。この驚くような
成果が、世界の最先端に認められる存在となったのである。わずか50人の三鷹の町工場、まさに、小さな巨人だ。

「必要なものをつくる」
「できないとはいわない」

このシンプルな二つの言葉を信念に、開発を続けてきたのだが、中村社長は、それだけ
では、満足しなかった。ここから、転換点を迎える。

第二話に続く・・・

~世界の最先端が認めた三鷹のテクノクラート~

三鷹光器株式会社

http://www.mitakakohki.co.jp/

所在地 〒181-0014 東京都三鷹市野崎1-18-8

 

取材ご協力

代表取締役社長 中村 勝重様

取材

東海バネ工業 ばね探訪編集部(文/EP 松井  写真/EP 小川)