第2話
世界へ行こう
水門にかかわる業界において、
比類の無い名声と、ブランドの威信を得ている丸島。
その評価は、単に人材や知識、技術力だけによるものではない。
誰もが認める丸島ブランド価値とは、どのように育まれてきたのだろうか。
ネルピックス社との出会い
「これからは、世界に目をむけよう」
業界にさきがけて海外進出を果たした丸島は、1967年にアメリカ国務省の
スターベーションダム向け高圧スライドゲートを受注した。そのきっかけは、1960年代
に創業者が参加した47日間の欧米視察旅行で、傘下に水門機器メーカーを持つフランスの
大手、ネルピック社との出会いにはじまる。
当時、「夢の用水」といわれた愛知用水事業が国家プロジェクトとしてスタートし、丸島は参画のチャンスを掴んだ。計画の内容は、全長112㎞に及ぶ幹線水路に35箇所の
水位調整ゲートを設けるというもの。電力のゲートが半数弱、残りは電気は使用せず流水の力だけで開閉する無動力ゲートが採用されることとなった。その製作、据え付けを
請け負ったわけだが、日本での無動力ゲート導入事例はほぼ皆無だった。
「はて、どうやってつくればいいのだろうか・・・」
そこで考えたのが、フランスのネルピック社から技術支援をうけること。早速、先方
に話しを持ちかけ、技術提携をかわすこととなり、水位の変動で自動的にゲートを開閉
する画期的な仕組みを完成させることができた。省力化に大きな効果を発揮したこの装置は、予想以上の反響を呼んだ。着工前に本社工場1階にコンクリート製の水路を設け、
アミルゲートなどネルピック社製品の作動実験ができる水理研究所を開設したことも
奏功し、完成後には各地から見学者が訪れたという。1960年代前半のことだ。
失敗を成功にかえる
この評価をうけ、海外を視野にいれた戦略へと舵を切り、受注したのが前述したアメリカの案件だった。英文の膨大な仕様書を読み誤ったり、不慣れな素材の加工に手間どり赤字をだしてしまうといった失敗もあった。しかし、失敗したことへの反省が改善点に
つながり、アジア、中東、アフリカ、中南米にも販路を広げ、34ヶ国への輸出実績を
あげることができたのである。
1976年、途上国を援助するまでに実力をつけていた丸島は、フィリピンで唯一のゲート
専門メーカーであるフィリピン・セノ社からの支援要請をうける。そして、業界初と
なったダム水質汚濁に対処する選択取水設備の開発に成功。この支援は、後の事業分野
拡大へ大きく貢献した。
丸島の技術が培われてきた背景には、自由で創造的な環境と研究開発への取り組みが
ある。当初、水門に関する統一された技術基準が確立されておらず、みな、手探り状態
だった。そんな時、先進国の技術を学ぼうと、海外の高価な技術雑誌を買い集めた。
その資料の多さは、同業者でも群を抜いていたという。後に500台の大ヒットとなった
「ネオ・スクリーン」という製品も、独ガイガー社の除塵機を技術雑誌で見かけたのが
きっかけだったと、技術顧問が丸島の88年史のなかで語っている。このエピソードからも、海外での経験が丸島の技術力を向上させたことは、いうまでもない。
逆風となった海外事業
創業から53年目、創業者から現会長の島岡司氏に経営のバトンが渡された。時代は
石油ショック後の不況から抜け出せず、財政再建のため、公共投資が抑制されていた。
水門事業という性質上、官公需に依存する丸島にとっては厳しい時期だっただけに、
新社長による新分野開拓のための改革案が次々と打ち出された。その成果として、
水処理事業や橋梁分野に一筋の光がみえはじめた。
そんななか、事態は一変する。1985年のプラザ合意だ。
「60年代から海外輸出を手がけ、着実に成果をあげていたのですが、プラザ合意の影響で円高が進み、価格競争力を失ってしまったのです。海外事業はやればやるだけ赤字に
陥っていく。成長の鍵を握っていただけに、断腸の思いで海外事業縮小の決断をくだしたのだと思います」
海外へ製品を輸出する多くの日本企業は、例外なく大打撃をくらった。不況の逆風が
町工場を襲い、倒産する企業も続出。これに対し政府は、内需主導型の経済成長を促そうと、公共投資の拡大など積極財政を展開した。そのおかげもあって、丸島でも国内の受注が急増し、業績はV字回復を果たす。結果、日本に景気拡大がもたらされ、その後のバブル景気に繋がっていったのは周知の通りだ。
先代の遺伝子を受け継ぐ
プラザ合意による業績悪化の局面に
立たされたとき、2代目島岡司社長は、CIの導入に着手した。単に社名やロゴマークをつくるという表面的な
ことではなく、企業体質、事業構造、社員の意識改革に挑むというもの。
創業60年を迎えようとしていた
だけに、生まれ変わる時だったのかもしれない。1話でもふれたように、
常に「これでいいのか」と見直し
ながら、丸島らしさ、アイデンティ
ティを確立していく。このことが創業以来、受け継がれている。
「創業者は、一日の行いを反省する
日記を書くのが日課というほど、
几帳面で努力家でした。『誠実・努力・反省』といった当社の社是は、創業者が制定したものです。反省というのは、今日一日、これで良かったのか。今月、これで良かったのか。今年、これで良かったのか・・・と振り返ること。これは、丸島のDNAであり、無形の財産だと思っています」
成果を出した海外進出は、円高の影響により撤退を余儀なくされたが、そこで培われた
技術力が、水門という分野の殻をやぶり、多角化経営へと進んでいくことになる。
第三話へ続く・・・
~水の流れと共存共栄の90年~
株式会社丸島アクアシステム
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代表取締役社長 島岡 秀和様
取締役 常務執行役員 奈良工場長 前田 雄司様
生産部 調達グループ マネージャー 谷口 俊夫様
調達部 部長代理 小山 正嗣様
取材
東海バネ工業 ばね探訪編集部(文/EP 松井 写真/EP 小川)