第1話
【大阪から生まれた技術が世界にわたる】株式会社中北製作所様
今や、バルブメーカーとして世界に知られる中北製作所は1930年に創業。
大阪で生まれ、大阪証券取引所に2部上場を果たし、今年で77年になる。原油タンカーのカーゴラインに使用されるバタフライバルブとその遠隔操作装置及び機関室のコントロールバルブで世界の造船業界から高い評価を受け「総合流体制御システムメーカー」として圧倒的なシェアを維持している。
大阪から生まれた技術が世界にわたる
「船のバルブはナカキタを使え」
今や、バルブメーカーとして世界に知られる中北製作所は1930年に創業。
大阪で生まれ、大阪証券取引所に2部上場を果たし、今年で77年になる。
原油タンカーのカーゴラインに使用されるバタフライバルブと
その遠隔操作装置及び機関室のコントロールバルブで世界の造船業界から高い評価を受け
「総合流体制御システムメーカー」として圧倒的なシェアを維持している。
営業所は東京、北九州にもあるが、工場はここ、大阪だけだ。
海外、国内と誘致はあるものの、高品質のバルブ製作へのこだわりと、ニッチな分野での成功が、
人件費の高い国内で、この土地でも、生産効率をあげて製作している。
その中北のフロンティア・スピリッツに迫ってみる。
創業時代~創業者・辨造と中北製作所
中北製作所は、現在の中北健一社長の祖父・辨造が始めた町工場からのスタートだった。
創業者の辨造は、大阪で生まれ、この地に育ち、呉服などを扱う商家の三男坊。
しかし、「これからは呉服より機械の時代だ」と、時代の流れを感じ、都島工業学校の第1期生として機械科を卒業。
専売局(JT)に入り機械設計を経験後、「小さな町工場を開きたい」と独立した。名付けて「中北製作所」。
この創業者、よく見ると名前が凄い。非常に難しい字だが、「辨」を簡単に書くとバルブの「弁」。
弁を「造」るで、『辨造』。これが本当の生まれ持った本名であるというから、
まさに、バルブをつくるために生まれてきた人物なのである。
さて、大阪市北区で看板をあげた中北は、アメリカ製のスイッチの分解をしては模造品を作る、
そんなことからスタートし、自動スイッチ、圧力スイッチなどを応用して動かす自動詞調節弁、
自動弁の製造を手掛けるようになった。
最初は、ポンプ作りに挑戦したが、これはうまくいかず。時を同じくして、
オムロンの創業者・立石さんも同じような場所で、同じような事を大阪で考えていたという。
ものづくりを目指す者同士、多少の交流があったようだ。当時、海外から仕入れたコネクターなどの図面をひきながら、
「これ、どうやって自動化するのだろうか」と、共に試行錯誤の毎日。そんななか、
オムロンは医療系の機器、中北は舶用のバルブへと、それぞれの道を進んでいったのである。
1937年に最初の工場を設立。
和製の自動バルブがまだ少ない時代、数名の職人と喧々囂々とやりあった様子が思い浮かぶが、
ここから、後にバルブ業界で活躍する辣腕創業者が何人も、育っていったという。
なんとか受注も増え、1939年には、大阪市城東区蒲生に移転。
折しも、第2次世界大戦が勃発、海軍管理工場となり輸送船の機関室の減圧弁等の製造に着手した。
終戦を迎え、しばらくの間はバルブの受注もない。修理等を引き受けて繋いでいた。
蒲生の工場は、もともと映画館だっただけに、半分を映画運営会社に貸したり、
月末の支払いが足りないときは、自家製の箱にアイスキャンディを入れ、自転車に載せて売りに行ったこともあった。
そうこうしながら、朝鮮特需による米軍向け暖房スチームトラップの大量受注で、ようやく底を抜け出すことができた。
さらに、日本が外航船を建造することが許可され、本格的なバルブ造りの再開となったのである。
日本経済の復興にともない需要は急拡大、工場は朝から晩までフル稼働だ。
ハードを中心にソフトへのアプローチ
「単なる価格競争で商売するのではなく、人のできない独自性のあるもので商売をする」、
社内では、中北のブランド化が叫ばれていた。
そこで手がけたのが、
ゴムライニング式のバタフライバルブ。完全に漏れゼロという、画期的なバタフライバルブが1963年に完成したのである。
それだけではない。タンカーの積荷用油ラインのバルブの小型化で、タンクの積載量を増やすことが可能となり、
なんと、タンカーの大型化が実現した。
こうして、船舶用のバルブメーカーとして、世界中に「船の中北」の名前を馳せることになった。
が、ブランド化の成功を見届けるように、辨造は世を去ることになる。
社是はフロンティア・スピリット「進取発展」、
ブランド化だけに満足する中北ではない。
「これからは自動化だ」、辨造の口癖だった。
ボタン一押しで、バルブが開閉するような自動化を、常に考えていたという。
どんなに品質の高いバルブをつくっても、それを操作するシステムがなければ意味をなさない。
「ならば、バタフライ弁の遠隔装置までをつくってしまおう」
この発案で開発に取りかかり、見事、やってのけてしまった。
ゴムライニング式のバタフライバルブ開発の7年後の1970年のことである。
その開発に手応えを得て、1991年には、コンピュータ制御の弁遠隔操作装置、
バルブリモコンシステムも開発した。
こうして「船の中北」は、“総合流体制御システムメーカー“として造船分野のトップに躍り出たのである。
『ハードを売りたければソフトの充実を』は商売の鉄則だが、
(その時代になってから着手しても、皆、考えることは同じである。)
(コンピュータの黎明期に、)口うるさく言っていた辨造の取り組みがあったからこそ、
コンピューター時代の幕開け初期から実績を積み上げることができた。
まさに、時代の先取りが大きな成功につながったのである。
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