第1話
【他の会社より一歩先を行け!】岡野バルブ製造株式会社様
九州は門司に本社を構える岡野バルブ製造株式会社。
バルブをつくり続けて今年で83年目。創業後に開発された画期的なステライトの溶着技術が、岡野バルブの競争優位を支えている。工場のなかは、その技術にかける職人たちの技と情熱があった。
九州は門司に本社を構える岡野バルブ製造株式会社。
バルブをつくり続けて今年で83年目。
創業後に開発された画期的なステライトの溶着技術が、
岡野バルブの競争優位を支えている。
工場のなかは、その技術にかける職人たちの技と情熱があった。
岡野バルブ誕生前夜
バルブというと何を想像するだろうか。解りやすいのは蛇口だが、流体を通したり、止めたり、制御したりするための通路を開閉する機能を持つ機器である。
今や、産業界の機械の中でバルブの無い器具は無いくらい、あらゆる機器のなかに埋め込まれている。バルブ製造会社は約550社(平成17年度調べ)、自社ブランドを持つ企業は200社、さらに高温高圧用のバルブをつくっている会社は10~20社ほど。岡野バルブ製造株式会社(以下岡野バルブ)は、その高温高圧用、ボイラー用のバルブのパイオニアとして業界をリードしてきた。
岡野バルブ本社前に展示されているバルブのモニュメント(左)
創業者である岡野満の銅像 バルブ業界の発展に尽くされた功績に建立された(右)
そんな岡野バルブの前進である岡野商会の創業は、大正15年11月、岡野満氏によって福岡県門司市に産声をあげた。そのきっかけは、満が当時世界一のボイラーメーカーであった英国のバブコック・アンド・ウイルコック社の、西日本地区の製造統轄部長を勤めていたことにはじまる。
数百台のボイラーを販売し業績をあげるも、建設の試運転で常に問題を起こし、満を悩ませていたものがあった。付属品のバルブである。まだ、飛行機が飛んでいない時代。部品を変えよう思えば、電報を打って、船で部品を送ってもらうため、3~4ヶ月かかってしまう。このバルブの処理に困惑すると同時に、日本国内でバルブが生産されていない現状に不満を抱いていた満は、「何とかして国産化しなくては。こうなったら、自分がつくってみせる」とバルブ製造を行う決意をする。寝る間を惜しんでのバルブ製造の研究の毎日。ついにバブコック社を退職。知人から資金を借りて、バルブ工場を作った。
こうして、岡野バルブの物語が始まったのである。
創業当時に建設された技術研究所、創業者のこだわりがうかがえる。(左)
1983年に製造されたマシン。今でも動いている。(右)
創業して間もなく、世界的に大恐慌時代に突入する。その荒波のなか、夢をギッシリつめた岡野丸は従業員十数名で船出した。前述した通り、バルブは100%輸入に頼っていただけに、国産品は見向きもされなかった。そんな状況下、元バブコック社のマネジャーだった満の人脈だけが頼みの綱、小野田セメント、豊国セメントなどの発電所にバルブを納品し実績を積み上げていった。この頃は主に青銅製が主流で、実に美しい芸術品のようなバルブだったという。
折しも昭和7年、荒波を乗り越えた岡野丸に飛躍のチャンスが訪れた。
当時、技術的に最もネックになっていたのが、バルブの生命線である弁座面の焼付だった。売り込み用で客先に無償で提供していた供試弁すらも、焼付が原因で返却されるという事態が起きていた。打つ手がないと困惑する現場で、ついに、満が画期的なことを思いついた。
「そうだ、ステライトを採用しよう」
ステライトという材料そのものは存在していたのだが、これを弁座に盛りつけるという点は、誰も気がつかなかった。研究熱心な創業者ならではの天才的発想が、すべての問題を解決し、その後の岡野バルブの成長の原動力となったのである。
職人の長年の勘と腕が岡野バルブの技術を支えている
このステライト採用のバルブが世に馳せることとなったのは、昭和7年、当時の鉄道省国鉄川崎発電所で行われた比較試験だった。当時の高温高圧用バルブといえば、イギリスのホプキンソンという会社が世界一の技術を誇っていた。そのホプキンソンのバルブと岡野バルブの製品を比較してみようというものだった。結果は、見事、岡野バルブに軍配が上がったのである。まだ、設備も、経験も未熟だった岡野バルブだっただけに、世界一の英国ホプキンソンに勝利したのは、まさに業界の歴史が塗り変わる瞬間であった。
弁座面に盛りつけられているステライト
こうして満は、創業当時の夢であった「バルブ製品の国産化」を実現させ、昭和8年、岡野商会から合資会社岡野商会に社名を変更。従業員も50名という大所帯となったのである。
さて、次回の第2話は、ステライトを採用した岡野バルブが、どのように溶着技術を開発していったのか、製造統括部長である江副重幸取締役へのインタビューから探ってみる。
※次回は、9月24日アップ予定です。!