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東海バネ工業株式会社

道なきところに道をつくる | 安全索道株式会社 様

第1話

道なきところに道をつくる

古くからの桜の名所、奈良県吉野山には多くの観光客が訪れる。
その人たちを山の奥へと運んでくれるのは、日本最古のロープウェイ。
窓から眺める桜の芸術は、自然の美しさをそのまま、映し出してくれる。
そんな山と山をつなぐ空中の道をつくり続けてきたのが、
創業100年の「安全索道」
日本の観光を支えながらも、需要の乱高下、用途変化に耐えてきた。
これまでも、これからも、変わらないのは「人を運ぶ」という使命である。

創業者の索道にかける思い

まだ、自動車も走っていなかった明治の頃、山の中に木材、生活物資を運ぶためには、人力に頼るしかなかった。そこへ、空中に渡したロープに搬器を吊り下げた輸送用機器をつくったのが、索道の歴史の始まりである。
「険しい山岳地の多い日本にとって、この索道こそがこれからの輸送機関として、将来、必ず必要になるに違いない」
そう先を読んでいたのは、安全索道の創業者、石田美喜蔵。英国商社の大阪支店長を務めていたとき、取り扱っていたロー式単線自動循環式索道に着目した。早速、普及活動をするため、山間地方を巡り歩いたのだが、索道というものがよく理解されておらず、大きな模型をもちながら、全国行脚したという。そんな苦労の甲斐あって、出身地である奈良のある人物が有志を集め、五条町から吉野郡十津川村にいたる索道による運送会社、大和索道が設立された。
明治45年に第1期工事が完成し、第2期工事は、大正4年に石田美喜蔵が個人で興した安全索道商会(大阪:安全索道前身)で着手した。完成した索道は、それまでいかだで数十日かかって運んでいた物資を、わずか3時間で運び出すという大成功をおさめたのである。

個人経営から株式会社に改め、当初は、海外案件を手がけていた。三井物産と総代理店契約を結び、10万円の資本参加を受ける。この大きなバックアップが信用となって、順調に事業拡大の路線を走り始めた。そんななか、海外視察に出向いた石田美喜蔵の貴重な学びが、帰国後、「人を運びたい」と、旅客索道をスタートさせることとなる。

早速、研究、開発に着手した石田美喜蔵は、奈良市北郊の奈良坂村に200メートルの実物索道を敷設した研究施設をつくり、毎日のように試験を繰り返していた。それは「安全」という大きな壁を越えるためだった。すでに、人を運ぶ索道はあったが、博覧会のアトラクション的なものばかりで、交通機関としてはまだ存在していなかったため、安全が最優先なのは当然であった。

「もの」から「人」へ
国内初の旅客索道を実現

試験をやり続けること4年、ようやく、旅客索道の案件が舞い込んできた。それは尾鷲の矢ノ川峠、全長1300メートルの線路に2人乗りの客車が8台吊り下がる単線自動循環式旅客索道だ。研究、試験の実績が効果を発揮し、ついに、国内第1号の国産旅客索道を実現したのである。2年後には、奈良県吉野に20人乗りの旅客索道を建設。この吉野山ロープウェイは、昭和19年の国策による不要不急設備の廃止・転用で、ほとんどの旅客索道が姿を消したなか、山上の町の居住者の生活を維持する交通運輸施設として存続し、「日本最古のロープウェイ」としての歴史を刻まれている。

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吉野山ロープウェイ

こうして、大正時代は「もの」を運び、昭和時代には「人」を運ぶようになった。安全索道は、その両方を手がけ、多くの索道建設を完成させていく。社員の半分は技術者という技術集団が、トップメーカーとしての位置付けを確立した。

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昭和19年、その先頭を走ってきた石田美喜蔵は69歳でこの世を去るのだが、創業者が切り開いた道と、旅客索道への思いは、しっかりと次の世代へと引き継がれていくのである。

ここから、日本は高度成長の波に乗り始める。

大量輸送時代へ

「索道の製造会社は、日本で数社しか存在しない寡占市場なんです。故に、激しい競争が展開されてきました。そんななか、我々はロープウェイで50%以上のシェアを持っており、昭和30年代のはじめから、40年代にかけての20年間で、飛躍的な成長を果たしたのです。現在使用されているロープウェイの80%以上をこの間に手がけています」

こう語るのは西川正樹社長。更にその後、スキーブーム、リゾート開発ブームが到来した。

「国内初のスキーリフトを小樽市天狗山スキー場に建設すると、スキーリフトの普及が始まりました。さらに、昭和30~40年代の観光ブームでロープウェイを数多く手がけると、今度は、平成を迎える頃のスキーブームで、リフトの輸送力増強というニーズが出てきたのです。リフト1時間待ちという状況に、全国のスキー場が、輸送能力と快適性のアップを競い合い、我々もそのニーズに応えるために、4人乗りのリフト、6人、8人といったゴンドラを建設していったのです。バブル絶頂期の10年という短い間に、1人用リフトを次々とかけかえたのですが、ピーク時で年間70本の受注がありました。」

発祥の地である大阪から滋賀に移り、それだけの生産量をこなすため、工場の規模を拡大した。しかし、このピークを境に、安全索道は、正念場を迎えることになる。

バブル崩壊の影響で、スキーブームは一気にひいてしまい、増強した輸送力はオーバースペックになってしまった。スキーヤーはピークの3分の1以下となり、スキーのリフトを架け替えるというニーズはほとんど皆無。不況という大きな荒波にのまれることになってしまった。

低迷期での大転換

「毎年のように受注が伸びていた時代は、リゾート開発ブームで、多くのスキー場が新設されましたが、バブル崩壊後は、それがなくなってしまいました。その反動に苦しみながらも、人を乗せるものですから、メンテナンス、安全性の維持は、我々がやらなければならない。そこで、経営戦略の改革に迫られたのです。」

どうしたら、生き残れるのか・・・

苦労を重ねる中で生まれたのが、メンテナンスへの特化である。老朽化した施設を維持・管理、改造するというニーズを見つけ、ここからメンテナンス需要を掘り起こすことに集中するという大転換に打って出るのであった。

第二話に続く・・・

~道なきところに道をつくる~

安全索道株式会社

http://ansaku.jp/

所在地 〒524-0041 滋賀県守山市勝部町471番5

 

取材ご協力

代表取締役社長 西川 正樹様 執行役員 生産部長 吉田 博司様
業務部長 藤澤 一弘様 生産部 資材課長 武崎 豊様

取材

東海バネ工業 ばね探訪編集部(文/EP 松井  写真/EP 小川)