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東海バネ工業株式会社

めっき、その先を追いかけて… | 株式会社日本ラスパート 様

第2話

【会社を救い、時代を築いたラスパート処理技術】株式会社日本ラスパート様

公害問題で大阪府警に摘発されたことで、
すべての計画が狂ってしまった星光技研。
信頼回復に向けて躍起になっていた津村社長に、
負のスパイラルから抜け出せるものが、一つだけあった。
それは、数年前から着手していたラスパート処理技術だ。

新工場移転後に仕上がる予定だったラスパート処理の開発は、なんとか資金をつなぎながら、1986年に完成させることができた。
脱めっきを掲げ研究を重ねてきたラスパート処理。この時点では脱めっきではないのだが、めっきの上に塗装を組み合わせた3層の相乗効果により、複合処理の利点で耐久性を持たせることに成功した。 それまでの電気亜鉛めっきから進化した、金属表面処理の技術である。

 

 

「ラスパート処理を、なんとか世の中に普及させたい」

津村社長は営業に回るが、実績のないことから、そう簡単に採用してもらえなかった。国内はもちろん、台湾、米国、ヨーロッパと、一人で奔走していた津村社長に 一筋の光が見え始めたのは、摘発から半年後のことだった。
それは、ダクロ処理。今でもメジャーな表面処理の技術だが、 まだ、円安傾向にあった当時、米国向けの輸出が多く、ダクロ処理は爆発的に売れていた。図面にダクロ処理との指示があれば、当然、その処理を施さなければならない。

ダクロ処理(ダクロタイズド処理)とは、アメリカのダイヤモンドシャムロック社が開発した自動車用小物部品を主な用途とする防錆処理法。耐食性に強く、電気亜鉛めっきに比べて水素脆性がないため、自動車の足まわりのボルト、ハブボルト、ブレーキ部品、ばね類などに用いられていた。
その時代、ダクロ処理の一人勝ちだったことから、 注文が集中し、業界は完全に処理能力が追いつかない状態となり、納期が間に合わないという状況にあった。これをチャンスと、津村社長は営業攻勢をかけはじめたのである。

「ダクロのかわりに、ラスパート処理というのを開発したのですが、一度、使ってくれませんか」

採用してもらうには、規格に合格しなければならない。早速、アメリカでテストを受けられることになった。一番最初に出たダクロ処理は500時間程一定の環境に置かれても、錆びないことが基準となっており、それと同じくらいの耐食性があるかどうかのテストが行われた。
結果を待つこと、3ヶ月。判定は見事、合格だった。そのOKが出た途端、 これまで閑散としていた岸和田の新工場前には、南港から大型トレーラーのコンテナが次々と入り込んできた。24時間操業の工場がようやくフル稼働。やってもやっても、追いつかないほど、注文が舞い込みはじめたのである。

最初に採用してくれたのは、酸性雨に悩まされていた欧州のお客さんだった。屋根を留めるボルトやねじの防錆処理に使われ始めたのである。欧州から米国、豪州とラスパート処理の名が知れ渡るようになると、めっきと塗装の複合被膜の代名詞といわれるまでになっていった。

めっきの加工は、通常1トン2万円。それに対して、付加価値が高いラスパート処理は8万円。これで、3億円の借金を返済することができた。 1989年には生産体制強化のため生産ラインを自動化、会社を救ったラスパート処理は、星光技研の歴史を変え、津村社長の人生を変え、社名すらも「日本ラスパート」と塗り替えたのである。

「今、何がバネになっているかといえば、排水に対する矛盾。生産活動にあけくれて、公害に対する勉強をおこたったこと、これが私の原点なんです」

軌道に乗った日本ラスパート、次なる壁は、水素脆性の問題。有害物質を一切使用しない技術への挑戦が始まった。

第三話に続く・・・