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東海バネ工業株式会社

めっき、その先を追いかけて… | 株式会社日本ラスパート 様

第1話

【運命を変えた日】株式会社日本ラスパート様

1968年、東大阪でスタートした町のめっき屋が、今、世界へ飛び立とうとしている。
3Kの代表的な仕事に危惧した津村正幸社長が脱めっきを掲げ、研究開発を始めたのが28年前。
そのきっかけは、大阪府警からの摘発だった。
顧客、仲間、社会的信頼・・・・すべてを失った津村社長に残ったものは、借金と孤独。
それがバネとなり、ただ、生産高を追い求める毎日から一転、津村社長が追いかけたのは、自分たちの<存在意義>であった。

「工場排水による影響がわかるまで、何十年もかかりました」
そう、口を開いた津村社長は、自分たちの仕事が、社会にどれだけ迷惑をかけているのか、自分達の立ち位置さえわからず、会社経営にあたっていた。

高校卒業後、建築士を目指し一旦は就職したが、1年後、1968年に父親が創業しためっき屋である星光鍍金工業所(日本ラスパートの前身)に入社した。レストランを経営していた父親が、「めっきは儲かる」との客の教えに軽い気持ちで始めたバレル電気亜鉛めっきの会社。万博景気に沸く大阪にあって、レストラン経営では得られない利益を手にすることができた。人手不足に苦労する父親を手伝うために入ったものの、肝硬変で倒れた父親に変わり、社長代行となる。5、6人の小さな町のめっき屋だった。

水質汚濁防止法が制定されたのは1970年。津村社長が入った当時(1969年)、塩酸や青酸カリは目の前の農業用水路に垂れ流し。それが公害問題であることを教えてもらったこともなく、疑問を抱いたこともなかった。

一方で、六価クロム、青酸ソーダ、硫酸と、めっき業は毒劇物を扱う危険な現場だ。薬品特有の匂いや、高電流を流す工程において感電する恐れや、苛性ソーダや塩酸を浴びて大やけどをおうこともある。めっきという名のつく社名を嫌った津村社長は、社長就任後の82年に、星光技研へと社名を変更。時を同じくして、新たな金属表面処理技術の開発にも着手し始めていた。

はじめて知らされる排水の影響

そうこうするうちに、行政から電話が入る。
「来年から、排水の設備をしてもらわないと営業ができなくなります」
排水処理をしてから流すという行為が、津村社長には理解ができなかった。自分たちの仕事はめっきをつけること。その先に出る廃液を無害にして排出しなければ、水質汚濁防止法にひっかかるというのである。行政からの通告に、はじめてその影響を知らされる。

「19歳からこの商売をやってきて、仕事は途切れることなく常にありました。それだけ重要な仕事をさせてもらっているのに、公害に向き合う機会はなく、勉強もしていなかった。行政から言われるままに、水質に関する資格は取得しましたが、公害のことだけはわからず、軽く考えていたのです」

電気めっき業に限っての公害問題は、排水、騒音、匂いの3つ。 当時、事業所がある東大阪の土地は住宅が押し寄せてきて、工場運営もままならない状況となり、岸和田への移転を計画。行政指導で、水処理装置を導入し無害な状態で排水していたものの、それをやらなければ営業ができないという理由からであって、決して公害問題への理解ではなかった。それよりも、バブル景気で日本中が沸き上がるなか、生産能力向上のため、津村社長も例外なく新工場の建設に向かっていた。その投資額、3億円。若干35歳のときのことである。

はかなく崩れ去った夢

6月のある月曜日の朝、出社すると工場の周辺が何やらおかしな雰囲気に包まれていた。よく見ると、そこには10人程の大阪府警の職員が立ちふさがっていた。
「水質汚濁防止法違反で起訴します」
基準値を超える工場排水を用水路に流したことで、 1985年6月18日、星光技研は摘発されてしまったのである。

NHKの夕方6時のニュースに映し出された自分の会社を見て、津村社長は愕然とした。さらに、「東大阪のメッキ業者、青酸ソーダ廃水を流す」という見出しが、新聞各紙を賑わす。その内容は、基準値を超えての排水ではなく、どれもが垂れ流しという表現だった。
東大阪市の公害課には移転計画書を提出済みで、「今の基準では数字を遵守することが困難なので、移転します」と、口頭での説明をしていたことから、それでいけると思っていた。しかし、現実は甘くなかった。新工場完成披露パーティ、1週間前の出来事であった。

銀行から3億円の借り入れをしてまでの新工場は、24時間稼働。これまでにない生産量を目指し新たな地に足を踏み入れるはずが、すべて狂ってしまった。稼いでくれるであろう新品の設備は、もはや、借金にしか映らない。
あっという間にお客さんも売上も半減、去って行く社員・・・津村社長に残ったのは3億円という借金だけ。さらに、当時は湾岸道路がなかったことから、岸和田市までの搬送運賃は膨大。最初から想定内ではあったが、見込みの生産量があって吸収できるコストであって、客先が半減してしまった以上、運賃はそのまま重くのしかかってくる。

「えらいことになった。一日も早くお客さんとの信頼を回復しなければ。それには、まず、公害に向き合うことや」

ここから、脱めっきを掲げ研究開発に突き進んでいった津村社長。すでにあたためていた技術が、会社を救うことになる。

第二話に続く・・・