ばね探訪 - 東海バネのばね達が活躍するモノづくりの現場をレポート

ばね探訪レポート

一覧へ

あんなこんなニュース

東海バネ工業株式会社

世界のものづくり会社を支える小さな頭脳 | 株式会社松浦機械製作所 様

第1話

【世界のものづくり会社を支える小さな頭脳】株式会社松浦機械製作所様

国内、世界にシェアを誇るメーカーが多く存在する福井県に、株式会社 松浦機械製作所という工作機械の会社がある。
その本社工場の入り口を覗くと、壁一面に貼られた社員の顔写真が目に飛び込んでくる。よく見ると、勤続年数別に分かれていて、松浦に惚れ込み、夢をかけてきた社員たちの軌跡を物語っているようだ。

世界のものづくり会社を支える小さな頭脳

国内、世界にシェアを誇るメーカーが多く存在する福井県に、株式会社 松浦機械製作所という工作機械の会社がある。
その本社工場の入り口を覗くと、壁一面に貼られた社員の顔写真が目に飛び込んでくる。
よく見ると、勤続年数別に分かれていて、松浦に惚れ込み、夢をかけてきた社員たちの軌跡を物語っているようだ。
入社の16年目の3代目社長も順番通り、特別扱いはしない。
そんな松浦の人間たちの思いや経験、出逢いが、苦難の開発を、見事に開花させたのである。

1

第1話.マイコン誕生とともに、技術革新の道へ

株式会社 松浦機械製作所(以下、マツウラ)の本社工場には、全国、全世界から多くの経営陣が商談に訪れる。マシニングセンタの立形、横形、5軸機の三種類を柱としたマツウラのショールームには、エンジンのシリンダブロックの削りだし、携帯電話の金型、これまで技工士が削っていた義歯など、自動車業界から医療業界まで、あらゆる加工サンプルが並んでいる。
どれ一つとっても、息をのむ程に美しい仕上がりである。

そんなマツウラは1935年、旋盤の生産、販売の専門会社として産声をあげた。機械好きだった創業者の松浦敏男が、夢をかけてスタートしたのだが、空襲により工場焼失、福井地震により工場倒壊という災難に遭遇してしまう。苦節20年、壊滅的危機を乗り越え、なんとかフライス盤を生み出した。
70年入社の品質本部の近藤好治取締役と、技術本部の天谷浩一取締役がマツウラの歴史の変遷を語ってくれた。

「私が入った当時は、プログラムコントローラ付きのプロコンというものをつくっていました。プロコンフライス盤の基盤を確立した後、NC化の技術を研究し、NCフライスの開発にも着手しましたが、そんなプロコンの盛期も、ドルショックに続くオイルショックで経済が停滞、急激に需要が落ち込んでしまったのです」(近藤取締役)
当時、180人くらいだった従業員は、忽ち半分になってしまう。
2
3

国内初のマシニングセンタで再出発

「困った。何をやろう・・・・・」
暗中模索のなか、第1の山は、マシニングセンタの開発だった。
当時、マシニングセンタは既に存在していたが、横形で大きく、4000~5000万円するような高価なものしかなかった。
「ならば、誰もやっていない低コストの立形をつくろう」、再起をかけのスタートである。
国内初の1号機は74年に完成した。マツウラにとって、初めてのマシニングセンタ。この機械の販売をかってでたのは、意外にもアメリカだった。名古屋での展示会に出展したときのこと、マツウラの機械は、メソッドというアメリカの販売代理店の社長の目にとまった。
『是非、おたくの機械を売りたい』
こう言ってきたメソッド社の社長に、創業者は二つ返事で話を受けた。
「創業者とメソッドの社長はすぐに意気投合し、契約をしたのですが、どうやって輸出すれば良いのかもわかりませんでしたから、大変でした」(近藤取締役)
言葉も十分に通じないまま、なんとかマシニングセンタは海を渡ったのだ。

メソッドをきっかけに世界の舞台へ

マツウラの機械はアメリカで大評判となり、次々顧客が増えていった。そのときの月の生産台数は3台程。5台もつくれば十分だった時代である。
「これまでの累計で17000台出荷しているうちの、約半分の8500台はアメリカで、残りがヨーロッパと国内の出荷です。アジアは500台くらいで全体の2~3パーセントです。」
ピーク時は、1年間でアメリカに600台くらい出荷していた。現在は、100~150台だというから、当時のアメリカの工作機械の需要の高さが伺えるだろう。
「アメリカの輸出規制で、輸出枠が決められたのです。うちは実績があったので、随分枠をもらえました。270~280台くらいだったと思います」(天谷取締役)
こうして、海外で認められ、業績は右肩上がりとなって伸びていった。その背景には、マイコンの誕生があげられる。ビルゲイツがはじめた1980年前夜とちょうど合致している。それまでハード主体だったものが、マイコンを使って、機械のコントロールをするようになった。これも、需要が伸びた要因の一つといえるだろう。
マツウラの勢いは、アメリカからヨーロッパへと広がり、ここから快進撃の始まりだ。
4

高速加工のマツウラ

マシニングセンタの立形、次いで横形に成功したマツウラ、第2の山は高速化だった。
「アメリカの市場はアルミ加工が多く、主軸を目一杯回して早く削ることが優先でした。価格の安さではなく、精度が重要。アルミの切削理論のなかに、ソロモンの法則がありまして、ある回転数を超えると切削抵抗が急激に下がるのです。早く回転させる方が効率的というデータもありましたので、高速化に挑戦してみようということになったのです」と、天谷取締役は当時を振り返る。
1分間に4000回転が当たり前だった88年当時、加工時間の短縮、高精度、この難問に取りかかったのは、当時の技術担当、三浦一男氏(現在は営業本部長 海外営業 ゼネラルマネジャー)だった。
「高速化のスピンドルは、まだ、世の中にありませんでした。高速で回すと精度が落ちますから、その精度を確保するためにはどうしたら良いのか、これが大きな課題でした」(三浦GM)
そのためには制御技術が必要だった。このとき、技術協力をしてくれた某NCメーカーと、日夜、研究にあけくれていた。

そんなある日、マツウラはついに20000回転に成功したのである。
これが、最初売れたときは、皆、度肝を抜かれた。
「アルミブロックの20000回転の削りだしを目にした時は、ただ、驚きました。切り屑がアクリルにあたり、火花がでるのです。はじめてみました。もの凄いエネルギーです」
88年のJIMTOFに出展したときのこと。ブース内であるサンプルを削っていた。偶然にも同じものをお客さんが1時間もかけて削っていたのである。松浦はわずか20分、加工時間が3倍違う。3日間、釘付けになっていたお客さんは、「信じられない」と、驚くばかり。結局、機械を購入してくれた初めてのお客さんとなった。

こうして、高速機シリーズを積極的に市場に投入、いつしか、『高速加工のマツウラ』と呼ばれるようになったのである。

災難で工場を失っても、世界経済停滞でも、不可能といわれてきた技術への取り組みも、どんな荒波にも立ち向かい、マイナス要因をプラスに変えてきた。
諦めない技術部隊 そんなマツウラの90年代は、どんな山を乗り越えていくのだろうか。
5

「第2話 マイコン誕生 5軸機誕生へ」に続く・・・

株式会社 松浦機械製作所

http://www.matsuura.co.jp/index.htm/

所在地:〒910-8530 福井県福井市漆原町1-1
tel : (0776)56-8100 / fax : (0776)56-8150

取材協力 株式会社 松浦機械製作所
取締役品質本部長 近藤好治様
取締役技術本部長 天谷浩一様
営業本部 海外営業 ゼネラルマネジャー 三浦一男様
技術本部 開発研究マネージャー 横井信一様