第3話
サバイバルを乗り越え、新生 丸島アクアシステムへ
かつて、水門業界の上位といえば、数社の大企業が占めていた。
そんななか、丸島は、独立した水門メーカーであり、
何の干渉をうけることなく、長期的ビジョンを携え独自の道を行く。
工場は町の喧噪から少し離れた奈良の大和郡山に位置し、
生き残りをかけた、第2の柱、第3の柱が誕生していった。
鶴橋から大和郡山へ
話しは少し戻るが、90年の歴史を語るなかで忘れてはならないのが、丸島が誇る奈良工場である。創業の地である鶴橋の23.5坪からスタートし、買い増しながら2,300坪まで拡大した。それでも製造が追いつかず、移転先を求めたある日、奈良の大和郡山の土地に
出会う。12,000坪という巨大な土地のまわりは、県道も人家もなく、見渡す限りの田園
風景。「ようみつけた。これや!」という創業者の一言で土地の買収が決まった。
大阪万博で日本中が沸いた1970年のことである。
工場をつくるにあたってのコンセプトは「公園工場」。地域の人たちにも楽しんで
もらえるよう、用地全体に緑のジュータンを敷き詰め、外を遮る塀は一切なし。
奈良工場を回ると、閉鎖感がなく、常に緑が目にはいることから気持ちがいい。町の風景を邪魔しないよう配慮が感じられ、現場でものづくりをしている技術者たちの表情も
明るい。1976年に鶴橋から全面移転し40年以上が経過しているが、レイアウトも
コンセプトも変わらず、工場は生き続けているという。
水にこだわり、水にこだわらず
こうした環境から、新規事業、新製品が次々と生み出されたわけだが、公共予算の圧縮や、為替の変動など日本経済の影響をまともに受けながらも、その逆境を超えるたび、
丸島は強くなっていったことは明かだ。2話でCIの導入に触れたが、その時、事業構造を
見直した丸島は、3つの事業を打ち出していた。
それが、水門で培った強み、技術をいかして成長した「橋梁」。水門と橋梁の設計・製造には、共通する部分が多くノウハウがいかせる。「水門は動くが、橋梁は動かない、
ならば、我々にもできるはず」と参入。歩道橋や可動橋の実績があったことから、
相次いで大型案件を受注することができた。世界初の連結超高層ビルとして誕生した大阪の「梅田スカイビル」は、2棟の頂部を空中庭園でつなぎ、22階部分は空中ブリッジで連結されているが、その空中ブリッジを手がけたのも、丸島である。
橋梁に続く第2の柱となったのは「水処理」。水の量を調節する水門は、水を貯めるため
濁りや悪臭が生じる。そこで着目したのが水質。水の量と質を制御できることとなった。そして、第3の事業は「水環境」。水質悪化の原因を追求し、水質保全の機器・システム
開発に乗り出す。ダム湖などの浅層循環により藻類発生を制御する「フローティング
噴水」を開発。1992年におさめた布目ダム(奈良県)は、夜間にライトアップされ、観光客の人気を集めた。
こうした多角化戦略で、環境変化のリスクに、柔軟に対応することができた。集中化して積み上げてきた水門事業から派生した事業だからこそ、事業全体に強みを増したので
ある。 そして、3年間越しのCI活動の結果として、1989年、「丸島水門製作所」から、「丸島アクアシステム」へと3度目の社名変更を果たした。水をテーマに生きていくという意志と、システマティックでありたいという願いが、アクアシステムという文字に
込められている。
突然の立ち入り検査
1990年代後半、バブル景気の崩壊から日本経済は徐々に失速、失われた10年に突入する。1997年の111億を超える受注額は過去最高を記録したものの、公共工事も予算削減が
叫ばれはじめ、丸島にとって、また、厳しい時代となった。
そんななか、1996年に入社したのが、島岡秀和社長である。総務部長の任に就くも、入社するやいなや、2年連続の赤字に転落してしまう。そして、営業部長となって間もない2006年、さらに、窮地に追い込まれる事件が発生した。入札談合の疑いで公正取引委員会の立ち入り検査を受けたのである。
「えらいこっちゃ、なんとかせな」。
その前の年、橋梁談合事件があり40社ほどの橋梁メーカーが摘発されたのだが、
「実は水門も行われていた」との内部告発で、丸島も調査の対象に。結果、1年間の指名
停止処分となった。創業以来の危機迫る状況に、秀和氏は事業承継のことで父親である
現会長と言い争う。「あと3年でお前にバトンタッチする」といいながら、1年経っても、あと3年と言う。これは、むしろ受け継ぐ側の問題やな。受け継ぐ側に覚悟と意地が
なければ、受け継がせる側も覚悟はできない、そう考えたのだった。
「社長を交代しましょう。私がやります」
この申し出に、「こんな厳しい時に継がせたくない」という親心もあり現会長は首を縦にふらなかった。しかし、会社としてなんらかの禊ぎは必要であり、こんなときだから
こそ、社内の気持ちを一つにするべきという秀和氏の思いは、揺るぎなかった。
こうして、2007年、3代目社長に就任したのである。
歓喜の万歳三唱
水門談合事件のとき、「業界全体が指名停止なんやから、停止期間が明けたら、一気に
案件はでてくる」と、社長を勇気づけたのは司会長。これまで丸島は、政治力で仕事を
とってきたのではなく、技術力で勝負してきた。「丸島は、必ずV字回復できる!」と、
会長の言葉に勇気づけられ、最大受注を目指してみんなで頑張った。すると会長の予測
通り、北海道から、次々と大型の案件が発注され、見事、丸島が落札。ちょうど会議を
していたとき、その一報が入った。
「万歳!」思わず、皆で万歳三唱をした。一致団結した空気が社内にひろがり、
「そのときの光景は今でも、焼き付いている」と島岡社長は語る。その後も北海道や
九州から連続受注を果たし、指名停止明けの期は、過去最高の受注額を記録した。
「水門市場は、大きなマーケットではありません。小渕内閣時代が市場規模のピークで1200億円。当時は、大企業も水門業界に参入してきました。我々もそうした看板力のある会社と丁々発止戦ってきました。現在の市場は600億円と全盛期の半分ですが、大企業の
撤退、後退もあり、結果的として、当社の年間受注額は、今の方が大きい」
そして、2011年に東日本大震災が発生。「復興を通して、社会貢献をする。それが我々の責務だ」と決意を新たに、復旧復興案件の受注に向かった。震災後、多額な復興予算が
付き、耐震化工事、防潮堰の新設や改造が次々と行われ、丸島は、岩手、宮城を中心に、かなりの工事を手がけた。さらに、高度経済成長期に建設された水門の老朽化に伴い、
保守メンテナンス需要も増加傾向となったのである。
自然相手にどうやって守るのか・・・
「今年は、災害が多かった。自然災害は時間が経つと、忘れられがちですが、毎年、
どこかで災害は起こっています。社会保証経費が増大していくなかで、公共事業にかける財源は当然、限りがありますが、必要性が見直されて、事業化されていくはずです。
形あるものは、いつか壊れる。すでに欧米では、老朽インフラがつぶれたり、ダムが決壊したり、インフラクライシスみたいな事象が多発している。手をこまねていては日本も
同様のことが起きてしまう。
「日本の河口口についている水門のほとんどは、高潮対策なんです。津波には耐えれ
ない。水門は2時間かけてゆっくり閉まりますので、高潮には間に合うのですが、津波には間に合わない。津波の水圧が押し寄せてきたら、高潮対策用の水門は潰れてしまいます。ここをどうやって、津波から守るのかです。丸島では、そういうことに対して、
「流起式可動防波堤」という新製品を8年ほど前から京都大学さんと共同開発しています。方々からご指導いただき、現在では、すべてのデータ取りが終了し、世の中にだせる段階にきているところです」
後継者として決心を固める
社長に就任して12年目を迎えた島岡社長だが、大学卒業後は竹中工務店に就職し、当初、家業を継ぐ気はなかったという。
「家業は、つがん。竹中でがんばるんや、と片意地をはっていました。父親とは、ある
時期、反目しあったりして会話もままならなかった。大学卒業時は、親父もつがんでいいと言っていたのですが、ある日、竹中で海外研修生として海外に行くことになったので
それを報告すると、猛反対をうけたのです」
「そんなもの行ったら会社辞められんやないか」
「なにを今更。好きにせい、いうたやないか」
結局、ロンドンに1年半。日本に戻ると、「会社いつ辞めるんや」と言われ、「海外から帰ってきて、そんなん辞められるか。恩知らずやわ」と返す。
「そんな私も、30に近づいたとき、色々と考えたのです。竹中での仕事は面白く、
やりがいも、夢もあった。でも、それは、自分にとって楽な道なのかもれない。丸島に
入ったところで、どうせ、社長の息子やと色めがねでみられるだけ。正直、そこから、
逃げていたのかもしれない」
後継者としての決意をもって、入社してみれば、試練の毎日。「竹中にいてはったほうがよかったんちがいます?」と言うものもおり、「なにゆうとんねん、入ったからには死ぬ気でやるわ」と燃え上がったものだった。「ひいたカードがマイナスカードだから
逃げる、のではなく、好き好んでマイナスカードをひく人間でありたい」と、ロックや
パンクが好きな島岡社長の生き様が、あふれ出ている。
おせっかいを焼く
会社に入った時、「思っていたより、ずっとしっかりした会社や」というのが、
第一印象。失礼な話しだが、嬉しい驚きだった。その一方で、違和感を感じたのは、部門の壁。「それは、ここの仕事ではない」「それは、工場の仕事や」と、何本も旗がたち、バラバラに動いていた。
会社組織というのは、オーケストラみたいなもの。一部のピアノやバイオリン奏者が
優れていても、いい演奏はできない。まわりの音に耳を澄まし、どうやって全体の
バランスとるのか、そこに気を配ることができなければ、いい演奏をするオーケストラにはなれない。会社も同じで、もっと、他部門に「おせっかいを焼く」ことが大事。
そのことを言い続けてきた。
企業にとっては、利益を出し続けることが、社会貢献。適正利益を上げ、納税する幅が
大きくなれば、それだけ、社会に必要とされているという証拠でもある。地味ではあるが、こういうことをしっかりと守っていきたい。
これが、あと10年で100年を迎える丸島の姿である。
~水の流れと共存共栄の90年~
株式会社丸島アクアシステム
所在地 〒540-8577 大阪府大阪市中央区谷町5-3-17
取材ご協力
代表取締役社長 島岡 秀和様
取締役 常務執行役員 奈良工場長 前田 雄司様
生産部 調達グループ マネージャー 谷口 俊夫様
調達部 部長代理 小山 正嗣様
取材
東海バネ工業 ばね探訪編集部(文/EP 松井 写真/EP 小川)