ばね探訪 - 東海バネのばね達が活躍するモノづくりの現場をレポート

ばね探訪レポート

一覧へ

あんなこんなニュース

東海バネ工業株式会社

宇宙の海原へ、夢を乗せて | 宇宙航空研究開発機構(JAXA) 様

第2話

宇宙の海原へ、夢を乗せて  -カメラマンズ EYE-

個人的に歴史をさかのぼると、同行カメラマンは天体小僧だった。
小学校の図書室で、ジュール・ベルヌやH・G・ウェルズのSF小説をすべて読破し、地球の引力からの脱出速度や、宇宙という存在、宇宙人の存在を、夜な夜な意識する小僧であったのだ。

昔、大都会にも星空があった

個人的に歴史をさかのぼると、同行カメラマンは天体小僧だった。
小学校の図書室で、ジュール・ベルヌやH・G・ウェルズのSF小説をすべて読破し、地球の引力からの脱出速度や、宇宙という存在、宇宙人の存在を、夜な夜な意識する小僧であったのだ。

写真の興味も宇宙から

その当時、日本のロケットは糸川博士の「ペンシルロケット」から「カッパーロケット」の時代になっていたものの(えらい年寄りだ!)、宇宙はアメリカとソ連(当時)の占有エリアという意識が強かった。
屋根の上に三脚を設置し、親に教わった多重露光で月食の様子を写真にしたり、北極星にレンズを向け、長時間露光で空を丸く巡る星の軌跡を撮影するのが天体小僧の楽しみだった。
ある時、紙焼きにした写真に、星の軌跡を横切る白い線が入っていることに気がついた。最初はフィルムの傷かと思っていたが、その後も何度もその線が入る。いったい何だろう?
天体小僧はその写真を手にして、図々しくも五島プラネタリウムの解説者に質問に行ってきた。すると「あぁ、それは人工衛星だね」、と!その答えには興奮した(笑)だって、人工衛星なんて写真に撮れるはずがないもの、と思っていたから。

ガガーリンが宇宙に飛び出し、帰還後「地球は青かった」と世界に発信し、シェパード、グレンがそれを追い、テレシコワが「私はカモメ」とつぶやき、アームストロングが「私にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩」と月面から地球に送信し、天体小僧は少年から青年になっていった(笑)

宇宙への憧れと畏怖感

宇宙には、底知れぬ深さがある。だから憧れ、恐れていた。その感覚は、深海にも通ずるものがあるのかもしれない。空気がない、誰も助けてくれない・・・。

いつしか天体小僧は写真を撮ることを仕事にし、 都会の空には星が瞬いていなかったからかも知れないが、 夜空を撮ることも忘れてしまっていた。
アポロからスペースシャトル、ソユーズ、国際宇宙ステーション、こうのとりと、宇宙はとても身近なものになっていった。もう人類初なんて前置詞がなくなってしまったと思っていた・・・。
しかし、違った。人類初はまだまだあった!それが「はやぶさ」の快挙だった。

イトカワへの旅、着陸・離脱、そして地球への帰還。それは、想像を絶するボヤージュだった(ボイジャーは太陽系の外を旅を続けているし!)。
宇宙という、誰も助けてくれない空間で、孤独に任務を遂行し、地球からの指令、バックアップで幾多の困難を乗り越えての帰還。そこには無限大の物語がちりばめられていた。
かくいう元・天体小僧カメラマンも、毎日「はやぶさ」を意識した生活が続き、オーストラリアへ帰ってきた時には、叫び出したい衝動を抑えていた(苦笑)
怖かっただろうな、疲れただろうな、おつかれ!

ちっちゃな宇宙がそこにあった!

筑波宇宙センターには、初めて訪れた。
出迎えてくれたのは、H-IIロケット。最初から興奮状態(笑)インタビューを撮影した後、展示館へ。そこは元・天体小僧カメラマン憧れのつまった宝箱のような場所だった。
写真を撮影するより、そこにある実機を見ることに忙しく、危うく業務放棄してしまいそうであった。
ペンシルとケット(実物大)から、現代のロケット(スケールモデル)までが並んだ歴史、国際宇宙ステーションの「きぼう」日本実験棟、想像以上に巨大だった宇宙ステーション補給機「こうのとり」の試験モデル、そして「はやぶさ」。日本という国が歩んで来た宇宙への挑戦、その歴史がそこにあった。

仕事(撮影)も終わり、ずっとここにいたい、いつまでも見ていたいという気持に後ろ髪引かれながらも、展示館を後にした。いつか、種子島宇宙センターから、日本初の有人宇宙船が飛び立つことを夢に見て!